「わが青春つきるともー伊藤千代子の生涯」を観て

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4月16日、前日の雨が上がって晴れ。ハトちゃんは、戦前、特高警察により過酷な拷問を受け、わずか24歳で亡くなった「伊藤千代子の生涯―わが青春つきるとも」自主映画製作を観に行きました。会場は千葉健生病院健康友の会会議室で午前10時と午後2時の2回のうち、午前の部へ。観客は約50名。

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前日から一般公開されて、千葉県でも各地で上映されます。戦前の治安維持法は、とくに共産主義運動への弾圧からはじまり、天皇主義、国体の護持に批判的な知識人や市民に拡大し、反戦・平和や民主主義を求める人々を次々と逮捕・投獄・拷問・虐殺しました。

当時、日本は軍国主義が台頭し、満州や中国に侵略後、第二次世界大戦に突入。多くの戦争死傷者、犠牲者を生み出し国土も焼失(最たるものは原子爆弾投下)、やっと無条件降伏で戦争が終結しました。

戦後の民主化で、この悪法も廃止されましたが、自分が生まれていなかった時代の負の遺産として、映画でもう一度、考え直す良いきっかけになりました。

「映画は大きく分けて二部構成。幼少期を経て土屋文明との出会いや、勉学をこころざし尚絅女学校、東京女子大に入学。マルクス主義を学習。大学内の社会科学研究会結成に参加し女性リーダーとして、科学的社会主義の理論を学びます。働く貧しい労働者のために、労働者の権利を守る組合の創立や民主化運動の先駆者となります。故郷・長野で製糸工場の大争議を通じて労農党の浅野晃と知り合った千代子は彼と結婚。共に大争議を支援。労農党は初の総選挙で躍進を遂げます。その後、共産党に入党し活動を続けますが、1928年3月15日に大弾圧が行われ、千代子も治安維持法で検挙・投獄されてしまいます。

後半の獄中拷問は目に余る非人道的虐待が行われますが、不屈の精神で頑張る姿は、同志のリーダーとして獄中の仲間を励ましながら耐え抜きます。特高警察の苛酷な取り調べ思想検事の執拗な転向強要にも信念を貫きます。同志である夫の転向・裏切りに直面し発狂し、精神と身体を病み精神病院へ。彼女の身体と精神は徐々に蝕まれて行きます。その後も自分の考えを変えず、獄中で亡くなりました。最後のシーンで、戦後民主国家になり、千代子の墓に同志が報告するシーンは涙無しには観られませんでした」

権力に反抗して平和と民主主義労働者の暮らしと権利を守る考えを貫いた伊藤千代子さんは、立派な人生で手本となる生き方です。感動しただけでなく、学ぶべき点が多い映画でした。

現代でも戦争は続いています。ロシアのウクライナ侵略による民間人大量虐殺や破壊は許せません。ロシア人がプーチン大統領やロシア軍の批判を言おうものなら、投獄され監禁する法律を制定し、徹底的に言論弾圧を行っています。ロシア国民内部からの声は、起こらないのでしょうか?
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映画中で、浅野が千代子に渡した紫のキキョウ一輪が印象に残りましたが、院友の会花クラブが手入れしている花壇に、
ボタンが咲いていたのと、桃色のツツジがきれいに咲いていて、平和のありがたさを感じた次第です。

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このページは、hatochanが2022年4月17日 12:38に書いたブログ記事です。

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