2011年3月アーカイブ

先週の3月25日(金)に、「ゆうほ(友歩・遊歩)21」の毎月恒例のウォーキング。快晴のもと、先生を含めて13名が9時30分に京成「実籾」駅前に集合。

開口一番は、東日本大地震のときの体験談。未曾有の大地震に際し、各人が交通機関のストップによる足止め等、そこで、ふだんのウォーキングが役立った話もありました。また、市内でも液状化現象で、水道が断水のままや、計画停電の実施による不便さを感じている方もありました。

とにかく、みんな無事にまた会えて、ウォーキングできる幸せを感じました。

駅を出発して、線路沿いを「八千代」駅方面に直進すると、現在建築中の「アンダーパス」(武石・幕 DSC02356.JPG張方面へ抜ける)の踏切地点へ。みんなで、工事中の柵越しに中を覗いて見ると、かなりの深さのところに水道管をはじめ各種工事が進行中。ここが開通すると、車の渋滞や踏切の待ち時間も解消できます。

八千代方面に向かって、左折して、少し東習志野図書館方向に戻ると、公園内に「ドイツ捕虜オーケストラの碑」 DSC02358.JPGがある公園内(9:50)へ。西郷隆盛の息子、寅太郎がスペイン風邪で亡くなったことも記されています。ただし、道路に碑が面していないので、公園内で注視しないと見逃してしまいます。

途中、東部体育館に近い先生の自宅も拝見。そこから、しばらく歩くと、先生から教えてもらい、現在は民家(10:07)になっていますが、 DSC02361.JPG屋根に陸軍演習場の名残りの建物を遠くから見ました。国の有形文化財になっているとのこと。

次に、昭和天皇が陸軍習志野演習場に来て労をねぎらった小高い丘も、民家アパートの庭越しに横から見ることができました。また、「習志野」の由来(志野に習え)についても知ることができました。大収穫です。真っ平らな高台が広がっていたため、一望千里習志野平原(いちぼうせんりならしのへいげん)と呼ばれていたそうです。

実花緑地は森林(松林が多い)公園で、行く手右方向に開拓後、工業団地(昭和40年代)群、現在は日立製作所と八千代台西を隔てる真ん中に位置しています。

ハミングロードを越えて、まっすぐ進んで、新興住宅地を抜けると、「自衛隊演習場」のある「習武台」を見に行きました。2階建ての屋根ぐらいの高さの丘の上に、ポー DSC02366.JPGルが立っていて、旗が立っているときは、落下傘部隊などの演習がある日だそうです。残念ながら、今日も立っていませんでした。昨年の10/22にも同様でした。

その先の、「市立習志野高等学校」の第二グラウンド、野球部の合宿 DSC02369.JPG場がある専用グラウンドにも案内していただき、今日は他校との練習試合中で、部員に話して、甲子園に出場した『記念顕彰碑』だけを見て、今夏の優勝をめざす頑張りを部員たちに伝えました。

広い道路に出ると、「イオン」や「セブン&イレブン イトーヨーカドー」の大型ショッピングセンターがあります。イトーヨーカドーで10分ほどのトイレ休憩(11:10)。バス停「工業団地」先の向かい側に、「鈴木金属工業」の敷地内に早咲きの桜がピンク色に咲き誇っていました。地震でテンションが下がり気味だったので、救われた気分に。今年、初のお花見に一同、感激。

DSC02373.JPGその後、「ハミングロード(マラソン道路)」に出て、マンション「ユトリシ DSC02377.JPGア」前の「有森裕子記念碑」のできた理由と、横にあった「この道路が 陸軍の鉄道跡だった」 DSC02375.JPGとの貴重な歴史的経緯の話を、先生から聞いて、感心しきり。

そこから、「東習志野ヘルス・ステーション」のある「ブレーメン習志野」へ。そこで、スタンプを各自押しました。そして、5分ほどで京成「実籾」駅に。ちょうど、駅前に着いたのが12時。次回の打ち合わせをして、解散となりました。

今回は、昨年の10月22日に歩いた逆コースで、何箇所か見たところもありましたが、「習志野」の由来や、民家の文化財などもわかり、再発見のウォークとなりました。

 

30日(水)午前中は、病院への定期検診・診察日。朝食後、行ってみると、いつもの混雑は無し。おかげで、予約時間どおりに済んで大助かり。でも、何か変なので、受付の顔見知りの事務員に聞いてみると、地震後、患者さんの数は、減っているとのこと。千葉市にある病院ですが、国道14号線より南にある埋立地の液状化現象の被害が影響しているとの話。

ライフラインが復旧するまでにかなりの時間がかかり、医者どころの話ではないのかも。確かに、閑散としている状況は、病院にとっては、経営が厳しくなるでしょうが、小生が思うに、ある程度の人数が確保できて、健康になって病院にかからなくて済む、このことは喜ばしいことだとも思います。

薬局に行って、薬を受け取る際には、被災地にまわしている関係で、湿布薬の在庫が少なくて、ご迷惑をおかけしますとのこと。たまたま、ハトちゃんは、義父母が大量にもらっていたため、当分の間は必要ないので良かったのですが、こんなところにも影響があるのですね。

昼食後、ウォーク仲間のNさんと、久しぶりに天然温泉へ。ここは、平日なのに、予想に反して駐車場がいっぱい。本日は、計画停電が実施されないこともあって、館内でくつろいでいる人たち、銭湯内もいつもより多くのお客さんが。やはり、ここでも大地震、福島原発事故の話題で持ちきり。筋トレの場所で見かけた男性と偶然遭いました。市内の体育館などのスポーツ施設は休館なので、こちらに来ていたのですね。やはり気分転換には、温泉が最高!です。

1時間半ほど、四方山話をして、とくに計画停電で除外地域になっている二人は、何かひけめすら感じているという共通認識に。ノンアルコールのビールを酌み交わした後、N氏が車で自宅まで送ってくれました。次回のウォークでの再会を約束して...。

東北関東大震災の発生する前の3月9日(水)に、生まれて初めて、T病院で脳ドックを受診しました。

最近、自分自身も年をとって来て、耳鳴りが続いていることや、遭ってもすぐに人の名前が出て来ないこと、物覚えが悪くなったことなどから、看護師である妻の勧めもあって思い切って行くことにしました。受診自体は、血液検査、眼底検査、脳や首のCT検査などで、2時間ほどですみました。

終了後、2週間ほどで、結果診断表を送付していただきましたが、ハトちゃんは初診ということもあり、結果についてのカウンセリングを18日(金)午後に希望。その後、大地震が起きて、計画停電による電車のストップにより延期になり、やっと、25日(金)午後にカウンセリングを受けられるようになりました。

当日は、早めに病院に到着。カウンセリングの先生も早めに来ていただいたので、約束の5分前から開始。画像を診ながら、詳しい説明を受けました。たまたま一人しか来なかった様子で、先生とゆっくり話ができました。耳鳴りの相談や腰痛も、どうやら脳の血流や首頚椎の詰まりなどが、原因のようだとのことでした。また、顔の位置はまっすぐなものの、首が少し曲がっていたのにはショック。若年性アルツハイマーの兆候は、まったく診られなかったのは、幸いでした。

対処法としては、心臓に持病のあるハトちゃんには、血液をサラサラにする薬の効用を高めるため、水のこまめな摂取と、正しい姿勢でのウォーキングが一番だとのことでした。

余談ですが、先生は大地震の時には、ご高齢ながら、病院のある新京成「高根公団」駅から、京成「志津」駅の自宅まで、約20km、5時間歩いて帰ったそうです。

診断結果が、紙での報告だけではなく、生の診断が聞けたことが、大収穫でした。

自分の脳の画像を見る機会は、病気でもない限り、あまりないでしょうが、中高年になったら脳ドックを受けて、一度は状態を知っておいて損はありません。

来年の受診を約束して帰途につきました。おまけに、病院脇の売店をのぞいたところ、どこのスーパーや自販機にも無かった、水のペットボトルが500ml 2本買えたことも、来た甲斐がありました。

 

3月26日(土)早朝、「リリーン」という電話の音で目が覚めました。実家の裏の方から、誰もいない妻の実家の隣接する「畑から、水が漏れて、道路近くまで、溢れている」とのこと。今回の地震で、後片付けに実家に帰った際、断水だったために、気がつかなかったのですが、やはり地震の被害が出ました。

先週の23日(水)に実家にいた帰りに、家の中の蛇口は、完全に閉めていましたが、その際、妻が「水道の元栓を締めて!」と言われたので探しましたが、見つからず、元栓を締めて来なかったので、いやな予感がしていました。

昨25日の13時過ぎにライフラインの上水が、やっと復旧したそうです。そうした中での出来事でした。電話をもらった後、すぐに水道局に電話しましたが、土曜のせいか、連絡がつきません。連絡をくれた方は、日頃、妻の両親がお世話になっていた関係で、何かあったときに、連絡をお願いしていました。

とりあえず、水を止めなくてはいけないので、何とか水道局への連絡をお願いして、妻の運転で、実家に急行しました。

1時間ほどで実家に到着。1台の車が止まっていて、水道元栓の近くで、穴掘り作業を。畑を見ると、水が見えるほどの水漏れで、道路近くまで、依然として出ていました。念のため、家の中の水道を見ると、栓はしっかり、止まっていました。

何でも、隣人の機転で、地元の民間水道店の男性が一人、汗まみれで悪戦苦闘。元栓の位置は分かったものの、旧式で元栓のコックが道具で、回らないとのこと。約30分ほどの作業で、元栓近くの水道管を道具で締めて、やっと止まりました。

終了後、水道屋さんに御礼を言うと、「地震のせいで水道管のズレが生じたのかも知れない。後日、修理をしないとダメ。誰も住んでいない状況ならば、元栓も新式に直して、簡単に締められるようにしておけば心配ない」とのこと。後日の作業を、約束して帰っていただきました。

朝食もとらずに、吹っ飛んで来たのと、水が止まった安心感からか、腹がすいて、妻と二人で、持ってきたパンをぺロリ。

それにしても、田舎の隣人愛に感謝しつつ、その日のスケジュールにしていた、義父の施設訪問と義母の入院見舞いをして、16時過ぎに、今、放射能で話題になっている旬の野菜と、納屋にあった玄米40kgを積み込んで帰宅しました。ヒョンなことから、食料調達ができました。

月曜に、水道局に事情を説明して、水道料金の件を相談しようと思います。今回の地震では、実家は断水以外、建物などには被害が無かったものの、水道が復旧するや否や、思わぬ落とし穴で、水漏れになり、あらためて地震の爪あとを感じた次第です。

 

3月20日(日)~22日(火)まで、妻の実家に彼岸ということもあり、義兄と甥、妻との4人で、行ってきました。ちょうど、20日には、寝たきりで入院中の義母の見舞と義父の老人施設訪問。そして誰もあるじのいない家の畑で、ジャガイモ植えおよび人参や春野菜の種蒔きにみんなで汗を流し、久しぶりに農家の大変さを味わいました。

3/11の大地震の影響で、いまだに、水は断水のまま。料理の水は、小学校での自衛隊による給水と、近くの農家の井戸水を利用するという不便さ。とくにトイレと、風呂に入れないことに不便さを感じました。

それでも、電気とガスは利用できたので、寒さは克服できました。余震や福島原発事故は続いているものの、その時点では、まだ放射線の騒ぎの前だったので、水のペットボトルの在庫がなくなるほどの騒ぎには、なっていませんでした。翌日には、畑には待望の雨が降ってくれて、前日の作業の読みがピッタリだったので、一同、雨を喜んでいましたが。ただし、ニュース等で、雨に濡れるのは良くないということで、施設訪問後、義父を連れて病院への見舞をして、ハトちゃんだけ、翌日も用があるため、一人残って3人は車で帰りました。

というのも、義父が施設入所後、血圧が高くなって心配なため、平日の火曜に、義母の入院先で担当医に診察してもらうことにしたためです。チャリンコで傘を差して40分。その後、義父と一緒に病院へ。9時過ぎに病院に着いたのですが、結局、診察を終えて、薬をもらい、施設へ戻ったのが正午と、半日かかってしまいました。

当日は、15時に、実家に誰もいなくなってしまったので、先週打ち合わせして、高齢者用の緊急電話の取り外しを頼みました。慌ててチャリンコで実家に戻り、途中で買ったお弁当を食べて、取り外し作業が終わったら、すぐに帰れるようにゴミ等の後片付けをして待っていました。

15時を30分過ぎても、担当者が来ないので、「どうなっているのか」会社の方に電話をしたところ、調べてくれて、技術担当の K氏の携帯電話から電話があり、「地震の影響で道路が通行止めで遅れています。ナビで探してそちらに向かっています」と。

『どのあたりにいて、いつ頃着くのか言わなかったこと』『実家に来るときに、国道は成田からこちらまで通行止めは無かったこと』が、ちょっと変だと思いましたが、相手が電話を切ってしまったので、またしばらく待つことにしました。

17時の最終バスに間に合わないと、当日に帰れなくなるので、16時10分過ぎに再度電話しました。ようやく連絡が取れて、電話が来ると、「国道356号に出たので、最寄り駅周辺ですので、もう少しお待ちください」。こちらから目印の建物を教えたところ、「了解です。もし家が分からなければもう一度電話します」とのこと。

作業は10分ほどなので、何とかなると思い、また、最寄り駅からはゆっくり走って来ても約15分なので、バスには間に合うと思い、少し安心しました。

しかし、17時を過ぎても到着しません。結局、当日の帰宅はあきらめて、泊まることにはしましたが、あたりは暗くなって来ました。このあたりは、町外れのため、街灯が少なくて、道路は見づらく、夜は地元の人ぐらいしか運転しません。

痺れを切らして、18時30分に再度、本社に連絡したところ、担当者の携帯はつながらず、連絡は取れないとのこと。まったくの無責任さに、怒りを通り越して、ハトちゃんはテンションが下がりっぱなし。途中で事故にでも遭ったのかと、こちらが心配する始末。福祉関係でサービスの仕事をしている会社にもかかわらず、これでは、信用ががた落ちです。

上司の女性から謝りの電話がありましたが、何とも管理する側の無責任さ。こちらは取り外してもらう受身の立場なので、来週以降に、打ち合わせして改めて実家に来ることにしました。小生は、このために、せっかく一日延ばして、実家に残ったのに。何のメリットも無く、結局、その夜は泊まって、明け方一番のバスで帰りました。

それにしても、実家には、また来週以降も帰るというものの、習志野から電車とバスで約2時間余り(一日5本)。行くのも結構大変なんですよ。今思うと、K氏は、本当に約束どおり、こちらに向かってはいなかったと断定します。

小生が電車に乗って帰宅途中に、自宅にK氏から「携帯電話が壊れてしまって、連絡ができなかったので、行けなかった」と息子から聞きましたが、「携帯の有無が問題ではなく、現地に来れたはずなのに、何をかいわんや」で、社会人としての責任感の無さに、ただただ、あきれるばかりです。

約束は守るのが当たり前で、できないときは、早めに事情を説明して了解を得るのが常識だと思います。地震にかこつけて、嘘をつく、要領の良い人間もいることを認識しました。

後日談になりますが、23日(水)の帰宅途中に、自宅に電話があり、息子に担当者から電話があったのですが、「携帯が壊れて行けなくなった」とのこと。「携帯が無くても、現地に行くことができるし、連絡方法もあるはず」で、何をか況や? 全く、話になりません。

さらに、29日(火)に、本社へハトちゃんから、仕切り直しで、取り外しの日時をあらためて電話をかけました。本社の上司に「くれぐれも間違えの無いように、別の人物を」と依頼したのに、追い討ちをかけるように、あろうことか同一人物が再度来る手配を。ドタキャンの本人から、悪びれずに電話が。これには、さすがに忍耐強いハトちゃんも、切れました。

まぁ、下請けに依頼しているとはいえ、何とも無責任で、無配慮の「緊急電話安全センター(株)」の対応でした。

 

今回の東日本巨大地震が発生してから、1週間が過ぎました。しかし、震度5を越える余震もいまだ続き、さらに福島第一原発事故でも、沈静化のための懸命な作業が、必死に行われています。確かに、当初、情報の不明さは残ったものの、かつて経験したことの無い大規模な地震による破壊は、原子力(核)の放射能汚染の怖さをあらためて感じさせました。

一般人としては、専門家や、関係者の最善の方法に頼るしかなく、一刻も早く危険性を取り除いて、数十万人の避難民が一日でも早く戻れるように、祈るばかりです。

テレビでは、やっと民放各局が、普通の番組帯に戻ってきています。この1週間、ニュースや特番でも地震関連以外は流れず、当然ですが。壊滅的被害を受けた、東北地方の被災地の悲惨な現状(特に、津波で被害を受けて、町、村自体が一瞬にガレキの山になってしまった。家族や親戚、知人の安否が未だにわからなかったり、避難所など)を見るたびに、心痛な思いになり、家族が遺体になって直面する場面は、涙が溢れて来てしまいます。

そんな暗くて、悲しいニュースの中でも、自分の家が無くなってしまった人で、「命があった」ありがたさを語られる、そんな言葉に、ほんの少し安らぎを覚えます。被災現場に、少しずつではありますが、救援物資・募金や後片付けのボランティアなど、いろいろな善意の協力が広がりつつあります。

学校の体育館などに避難している被災者の皆さんは、寒さ対策や給食、睡眠不足など、ストレスもたまるでしょうが、被災は自分だけではないという共同意識で、この大変な状況を乗り切ってほしいと思います。

首都圏での計画停電で、交通機関や道路事情も混乱していますが、被災地の方の大変さに比べれば、軽いものです。それでも、ガソリンや食料品、トイレットペーパーなど、「買いだめ」で品不足になり、並んでも買えない状況は、ちょっと過剰反応です。被災地のことを思って、必要最小限に反省すべきです。小生の家では、買いだめをしないように決めました。また、節電や募金など、できるものはやって行こうと考えています。こんなときこそ、日本全体で協力して、早く立ち直って行かなければ...。

自然の脅威は、人間の文明の力でも及びません。今回の巨大地震で感じたのは、一番に「命の尊さ」です。生活できる空間は、無くなっても、少しずつ復興していけますが、人間の命は帰って来ません。一人でも多くの方が生き残って、助かってくれていれば、明日の希望が持てます。

いざ、自分の家族に災難があったら、どうなるかは分かりませんが、現実を受け入れることから出発して、ニ歩下がるかも知れませんが、一歩一歩、前に進んでいってほしいことを願うばかりです。

誰もが思い知らされた地震の恐怖体験を、今後の地震・災害対策に生かして、日常から防災に対する認識を一人ひとり深めていく必要があります。

第二次大戦後、敗戦の戦禍の中から立ち上がった日本。経済大国になるまで頑張った日本人の意志は、今でも受け継がれていると信じます。厳しい逆境の中で、今こそ、みんなが協力して前進して行かなければと考えます。

  

大地震(3/11)が発生する前の3月8日(火)に、「ゆうほ(友歩・遊歩)21」では毎月恒例の市外ウォーク。前日、降った雪もとけて絶好のウォーキング日和。

船橋西武前に集まった総勢15名は、花粉症でマスクをしている4名を含め、元気にJR「船橋」駅(9:30)から総武・横須賀線、品川から京浜東北線、そして蒲田駅からは、歌で有名な東急池上線に乗って、池上駅(10:33)に着きました。初めて乗った池上線は、こじんまりした車両で風情がありました。

駅前から10分ほど歩くと、目の前に急峻な階段が聳え立つ。その階段(96段)を登ると、日蓮宗大本山で日蓮入滅の地である、池上本門寺に到着。境内は、さすがに広い。 DSC02280.JPG DSC02280.JPG総門、本堂、経蔵、宝塔など、茶色の色彩を主にして、屋根のそりや大きさが威風堂々の迫力で、圧倒されました。

しばし参拝して、境内をみんなで散策後、トイレ休憩。

寺の裏から出て間もなく、大田区立の池上梅園へ。満開は過ぎたの DSC02291.JPGでしょうが、紅白の見事な梅が、所狭しと咲き誇って、甘い匂いを醸し出していました。「ここだけでも、本日、来た価値がある」と、メンバー全員が思いました。入園料も100円と安く、65歳以上は無料となっていたので、何人かはニンマリ。30種370本が、考えられて植栽されていて、中には1本の木で、紅白の梅花が咲いている珍しい木もありました。名残惜しい感がありましたが、先を急ぎ退園。

次に、すぐ傍の大坊本行寺へと。ここは、日蓮入滅の霊跡で、先生から「誕生寺」「身延山久遠寺」と DSC02296.JPG並ぶ日蓮上人の三大聖地の一つで、入滅時、1282(弘安5)年の10月に咲いたとされる「お会式桜」を観賞。

裏道から本門寺に戻り、裏手の墓地へ。墓地内には、加藤清正、力道山(享年39歳)の胸像がある墓にも立ち寄りました。 DSC02313.JPG途中、高くそびえる日蓮上人立像や真っ赤な宝塔を横目に観ながら、関東で最古で最大の五重塔を右折。梅園をゆっくり観た ので、時計の針は正午を指す。本門寺のある丘の上に立つ池上会館で昼食。会館の5階部分に当たる屋上は、円形の公園になっていて、眼下に池上周辺の景色が一望でき、遠くに東京スカイツリーも見えました。

ベンチが点在していたので、みんな一緒ではなかったのですが、思い思いに食事、談笑していました。

昼食後は、五重塔を間近に観て、雑木林のある本門寺公園の遊歩道を進み、釣り人のいる弁天池 DSC02308.JPGの周囲を通って、龍子記念館へ。先生が1本曲がるのを間違えたのも、ご愛嬌。ここは日本画の巨匠、川端龍子の記念館。中には入らず、外から建物を見学。

次に向かったのが、美智子皇后殿下のご進講をつとめた、現代かな書道家の熊谷恒子記念館。入 DSC02323.JPG口に胸像あり。100円の入場料は、ここでも65歳以上は無料の特典があり、一同苦笑い。和風の建物内には、書(掛け軸、色紙など)、資料が展示されていました。しばらく鑑賞して、大田区立郷土博物館へ。入口横には、ゆかりの文士村地図の看板が。 DSC02324.JPG無料ということもあり、入館し、大田区の地名(由来は、大森と蒲田のそれぞれ1字をつなげて大田に)。また、大森貝塚関連、大森の海苔養殖や発掘の考古学資料や、文人たちの「馬込文士村」の資料が展示されていて、貴重な大田区の歴史に触れることができました。

途中のコースは、アップダウンが結構きつくて思ったより大変。汗をかきかき前の人に遅れないように歩行。「汐見坂」上からは、昔、大森の海岸が見えたことを偲ばせるものでした。

源氏の梶原景時が移ったとされる満福寺では、門前に、名馬磨墨(するすみ)の前足を挙げた像と、詩人の室生犀星の句碑もありました。

DSC02334.JPG環七道路の大通りを横切ると、境内が狭く、池の中にある小さな厳島神社の境内を通ると、大森駅はもうすぐ。天祖神社横を通行人が行き交う。階段の石垣には、銀色に光る、文士村レリーフが幾つも掲げられていました。 DSC02340.JPGレリーフの説明を受けながら、坂を降りると、JR京浜東北線の大森駅西口前へ。15時ちょい前に到着。ここで、本日のコースは終了。歩行距離7kmとのことでしたが、アップダウンがかなりあり、思いのほかタフなコースでした。

 

 

ハトちゃんは結婚後、千葉市に妻と住んで以来、妻が登山をやっていた関係で、「千葉 山を歩こう会」のメンバーに加わり、毎月の定例山行で関東近郊の山に出かけていました。

たった一度でしたが、飛行機に乗って、3人の仲間と一緒に、南の島「屋久島」に、1993年8月中旬、夏休みを利用して遠出をしたときの記録です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

鹿児島から洋上130km南下したところに屋久島がある。今回の千葉中年隊3人+若者1人は、8月17日(火)~21日(土)の4泊5日で南海の屋久島をめざした。

YS-11(プロペラ機)で屋久島空港に着いたのが12時30分。当日は曇りで、これから5日間、天気は果たしてどうなのかという心配が、まず先に立った。というのも、「この土地は雨が多くて有名で、なかなか晴天に恵まれない」という、タクシーの運転手の話で、「とくに無理な山行で一命を亡くした事故があったばかりだ」と言う。われわれの山行スケジュールを話したところ、「大丈夫」と言ってくれたので、まずは一安心。

計画時は、尾之間歩道から蛇の口ハイキングコースへ抜けるコースを考えたが、鯛の川の増水による危険性から断念。タクシーで、淀川小屋先から尾之間温泉へ出ることにした。

最初の登山口である白谷雲水峡に到着。ここで、食べ物を狙った野生のサルに花井先生が襲われるハプニング。幸いケガは無かったが、「ヤクザル2万、人2万」と言われるように、道中、随分お目にかかった。地元の人に石で退治する方法を教えてもらった。

原生林の中を歩いて行くと、至るところに湧き水、沢があり、水と緑の登山がいよいよ始まった。白谷山荘をはじめ、島の山小屋は、無人で、全部自炊の登山利用になる。今回は8食分の食事を買い込み、各自担いで歩いたので、10kg以上のリュックを背負う。通常の歩行スピードより遅くなって、身体のバランスをとるのが意外と難しい。

やっと夕食の焼肉と果物にありついた小屋で、井ノ口、松島氏の二人は、執念のゴミ燃やしに挑戦。とうとうコンロにビニールがくっついて燃えて、さながら戦場の遺品を想像させ、同泊者も真っ青に。次の日、リュックが少し軽くなって感謝、感謝。翌日、井ノ口さんが少しバテたのは、一酸化炭素の吸い過ぎかも知れないと......。

2日目の行程は、思っていたよりきつかった。木の根とコケの生えた岩場を次々と越えて、今回の観光の目玉の一つである縄文杉をめざしたのだったが......。

屋久島の日の入りは遅く、日の出も遅い。早立ちの登山者をよそに、われわれは悠々と朝食をとり7時30分に到着。長いトロッコ木道をダラダラ登り、やっとウイルソン株にめぐり会えた。 PHT2016[1].jpg中は空洞になっていて清水が流れていた。木の周囲は大人10人ぐらいでやっと手が届PHT5009[1].jpgくかも。さらに奥へと進み、大王杉夫婦杉を経て、めざす縄文杉に着いたのは午後2時近く。お腹が空いて、きつい山行でした。

しかし、樹齢7200年といわれる、縄文杉を目にした途端、自然の生命と歴史の年輪を感じ、環境保護の重要性を改めて痛感させられた。実際に見て、その圧倒的迫力に驚いた次第。皆で記念写真をパチリ。気分も新たに、古い高松小屋を通り過ぎて、新高松小屋まで足を延ばして宿泊。ここは、築が新しいこともあって、地図にも道標にも無く、着くまでは不安になったが、井ノ口リーダーの先導で無事到着できた。

 

OさんとSさんの女性ニ人は、昨年7月下旬に北岳に挑戦し、台風の影響による大雨のため、惜しくも山頂直下でトラバースすることになったので、今回は意欲満々。大樺沢コースは前後の登山者が一望に見える。重い荷を背負っている人には悪いが、我々は宿舎に荷を置いて身軽で登山。おかげで負担がだいぶ軽減。しばらく行くと雪渓にかかったが、今夏は暑さのせいで非常に少ない。雪渓を登る人はいない。途中、沢が何ヵ所かあり、清流が流れていて休息するのにピッタリ。

前方に荒々しいバットレスの岩壁が晴れ間に望めて、草地には高山植物が咲き誇っていた。30分 battoresuP814018611[1].jpg登って、5分の休憩ペースで、雪渓を越えて梯子が連なる道をひたすら登り続け、八本歯のコルへ。途中、昨年女性2人がトラバースした北岳山荘への標識を後にして、念願の北岳登頂。ここより高いのは、富士山だけ。

頂上は意外と広く、太ったイワヒバリと、3,000m超の爽快な涼風が吹いていた。頂上からの眺望はガスっていて見えなかったが、ときおりガスが切れて、仙丈岳大樺沢広河原が見えた。そのうち、また雨が降ってきたので肩の小屋へと向かった。小屋の主人は話が好きで、人柄がよく、夕方見えたブロッケン現象や彩雲など、登山客を案内して親切に説明してくれた。また、珍しいダルマストーブのまわりで、中年のおばさん4人組の滑稽な話に、しばし時を忘れて聞き入っていました。他にも親子4人連れとも仲良くなり、一緒に談笑。相手は、2組の夫婦同士見ていたので、さらに爆笑。

肩の小屋では早朝7℃の中、ご来光を見る。そして正面に甲斐駒仙丈岳鳳凰三山富士山八ヶ岳や南アルプスの山々が眺められ、十分に景観を楽しむことができた。

下りは、ジグザグ道で結構きつい。白根御池小屋周辺の斜面で高山植物を観察して御池小屋で小休止。前夜の家族も送れて到着。ピラミダルな北岳を下から見上げて感激。下りに弱いハトちゃんを先頭に、登り口の広河原山荘に予定どおり到着。

最後に、荷物を預けた広河原ロッジで風呂に入って3日間の疲れを癒した。

ここで、Tシャツ事件が発生。間違って、入浴後、小生が他人のTシャツを着ていたとか? 真相はいまだに分からない。

今回の山行は、アップダウンが思って以上に無く、同行のみんなに病気やケガが無く、無事に当初の目標をクリアーできた。みんな頑張って、コースタイムを上回る健脚を見せてくれた。天候は、雨男二人のせいで、最終日を除き雨にたたられたが、知恵を出し合い、念願の北岳登頂を果たした。

雷鳥も顔を見せ、豊富な高山植物群。北岳をはじめ南アルプスの山旅を満喫できた。今後も 『こんにちは』と声をかけ合える、ふれあいの山登りを続けていきたい。

地震の被災者の方には、大変申し訳けないのですが、少しでも明るい話をと...。当時の原稿がタンスの引き出しから出て来ました。ハトちゃんが元気な40代の頃の話を紹介します。その頃は、山登りが趣味。ときは、1994年8月。高さが日本第2位の北岳に挑戦。                          

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

久しぶりの南アルプス。今夏の猛暑を逃れて高山の涼と植物を求めての山行は、Oさんをリーダーに男女2人ずつの4人で挑戦することになった。

8月20日(土)あずさ3号に乗った一行は、甲府からタクシーを使って広河原まで向かった。途中、くねくねとした山道とトンネル(数えていたが途中で分からなくなった)を抜けて、猛スピードで広河原発10時30分のバスに間に合うか?タクシーの運転手が頑張ったが、間一髪アウト。無常にもバスを見送ることになった。

仕方なく、昼食をとり、2時間後に次のバスで北沢峠へ向かったが、この頃は登山者でいっぱい。約30分ほどバスに揺られて、峠に到着。やっと登山し始めたが、途中から生憎の雨。バスに乗り遅れたことを悔やむ。前途多難のスタートとなった。

馬の背ヒュッテは、夏休みの土曜ということもあって満杯。定員80名が、倍以上の泊り客で1畳3~4人という身動きできない状態。ハトちゃんは隣りのおじさんに、一晩中いびきと寝床を挟まれて一睡もできず、ダウン。こうした環境で眠れる人が羨ましかった。

翌朝も雨。予定の両俣小屋へ行くルートは断念。ここで二転三転し、ルートは決まらない。仙丈岳に登ってから考えることになった。仙丈岳は 3,000mを越えているが、さほど高さは感じない。周りは小雨とガスって景色が見えない。殆どのパーティーが下山。我々も下山し、明日、鳳凰三山へ行くことにして、小仙丈から北沢峠に引き返した。途中で、登ってくる中年の登山者が、前日、北岳へ広河原から登ったことを聞き、心変わりして広河原から、当初の予定「北岳山行」を目指すことで意見が一致。雨中、昨日来た北沢峠から広河原に出た。

DSC02354.JPG幸い、国民宿舎「広河原ロッジ」に宿泊できることとなり、風呂にも入れてビールを飲んでゆったり気分。6畳の部屋に2人で泊まるという優雅さ。前日とは打って変わり、熟睡できた。

3日目の朝、午前4時起床。天気は曇り。5時10分、いよいよ日本第2の 高峰である北岳へ向けて出発。早朝で身体が重くあまりピッチが上がらない。息を切らして登攀状態が続く...。

 

今回の大地震で、小生は、ウォーキングイベントも体育館等も利用できなくなり、仕方なく毎日、スーパーの開店時に並んで、食料品の調達で時間を過ごす日々です。 


昨14日は、近くのスーパーへ11時過ぎに食料品を買いに行ったのですが、店内に入ると品物の陳列棚は売り切れで空っぽ。パンや米、即席ラーメン、飲料水は、その後、3つのコンビニに行っても、まったく買えない状態でした。

本日(3/15)は、昨日の反省をして、開店時間の20分前から並びました。それでも、ハトチャンより前に並んでいた人は、200人余り。みんな、開店時間を今か今かと待っていました。

後ろのおばさんは、「何でこんなに並んでいるの?買えると思うのにね」と他人事のよう。しかし、多くの人は無言でただ開店を待つのみ。

待つ時間は、結構、長く感じましたが、入口の扉が開けられるや、急ぎ足の人が大半。「駆けないでください」というアナウンスにも、逆らって先を急ぐ人も。ちょうど、こども連れのお母さんが、こどもの手を離して、こどもが泣き出す始末。まぁ、ケガをしなかったので事なきを得ましたが、こういうときに、こども連れは大変です。できれば、連れて来ない方がよいと思いました。

ハトちゃんは、妻から買うものを4点書いてもらったので、その品物を何とかゲット。途中、買物カートにいっぱい買い込んでいる人の姿もチラホラ。こちらは他の商品には見向きもせずに、レジに並びました。それでも、通常の倍ぐらいの順番で、時間がかかりました。

この売り切れ状態は、東日本大震災にともなう計画停電や、福島原発の爆発など、不安を感じた市民が殺到したためです。それにしても、群集心理の様相は生活防衛とはいえ、パニック映画を見ているようです。「慎重に」と言っても、かつて経験の無い大惨事なので、無理かも知れません。本当に必要な物だけ買えばよいのに、不安心理が「買いだめ」を煽っています。

もう一つ、東京電力による「計画停電」も、急に決めました。実施することが決まっているのに、昨日と本日も、習志野市では実施されずに、童話「狼少年」のようです。せっかく水をためて確保したのに、くたびれ損。実施するといった以上、必要だから決定したのに二転三転。実施時間も何時から何時までとはっきりしてもらった方が計画しやすいのに、実施時間帯のうち3時間程度とあいまい。

それにしても、いつ頃落ち着くのでしょうか? 先行きが見透せないほどの生活不安。今も震度5を超える余震が続いています。落ち着いて、早く復興の目途が立てば希望が持てるのに。本当に明るい話題が早く出てきて、平穏な日々に戻りたいものです。

幸い、わが地域はライフラインが止まらなかったので、電気、水、ガスなどライフラインの豊かさとありがたさを、あらためて痛感しています。

被災地の救命救急や支援活動が安全性を確認の上、速やかに行われることを、切に願ってやみません。

3月11日(金)午後2時40分過ぎに起こった東日本大地震は、M9.0という、日本史上最大級の被害をもたらしていて、3日たった現在も、被害が拡大の一途を重ねています。

現在も、巨大津波にのみこまれて、お亡くなりになった方や、未だに行方不明が多数あり、福島の原子力発電所の爆発による被爆、また各地の避難民が数十万人の規模という、未曾有の大惨事になっています。

心より被災地の皆さんに、御見舞申し上げます。
 
まだ、関東地方でも今も余震が続いており、大変心配です。また、計画停電も本日から始まり、さらに不安な毎日です。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

ところで、小生は、当日午前中は娘と二人で家にいましたが、午後は久しぶりに自宅に帰って来ていたので、東部体育館に筋トレに出かけました。受付で4月から受講のウォーキング教室のお金を払い、着替えて2階のトレーニングルームに向かうところでした。エレベータに乗ろうと受付を見たとき、体育館長を見かけ、この1ヵ月の妻の実家での生活を話していた瞬間に、地震の大揺れに遭遇。あまりの激しい揺れに立っていられず、イスを握って、へたり込んでしまいました。いつもの地震の規模と違って、恐怖を感じました。そのうち、館内にいたスポーツをしていた皆さんも出て来て、何人かは外に逃げました。「壁がはがれて落ちてきた」とのこと。

揺れがおさまり次第、体育館から、自宅(娘が一人で留守番)にチャリンコをとばして急行しました。途中、大原神社の石柱が数十基歩道に倒れていました。また、京成線の踏切は遮断機が降りていて警報機が鳴りっ放しの状態。通行人のおじさんの機転で、左右を確認しながら、チャリンコを踏切棒の下をくぐらせて、自宅に無事到着。

娘は、庭に避難していましたが、無事なのを確認。2回目の余震では、2人だったのでかなり心強かった状況でした。余震が続き、4時過ぎに少しおさまった頃に、二人で家の中を点検。本棚の本はと DSC02344.JPGび出して散乱。机、ベッドも10cm以上、ずれていました。幸い、食器棚はガラスコップ一つ割れていないでラッキーでした。二人で、力を合わせて元に戻しました。

台所のタイル1枚と外壁が2枚はがれた箇所、和室の壁にヒビが入ったこと、庭の燈籠が一つ倒れて、松の枝が数本折れた程度の最小限の被害で済みました。

テレビをつけると、東北地方を中心に被害が出て、未曾有の大惨事になっていました。日に日に被害が拡大、被災地の状況の映像が流れるたびに、心痛の思いになっています。

生涯、これほどの地震にあったことが無かったので、あらためて自然の脅威を痛感し、恐怖した次第です。

また、首都圏の交通網はストップ。寝ずの晩になった方も大変でした。息子の大学の同窓生も帰れずに3人を拙宅に泊めました。

昨日、高速道の通行止め解除により、妻の実家に帰ったところ、入院先の病院で、断水。地震時には、建物が老朽化のため、病院のスタッフが、高い階の患者を総出で、1階まで降ろしたそうです。


テレビは、大震災の報道で、ほとんどのチャンネルで、そのニュース。ガソリンスタンドでは車の行列。 DSC02349.JPGスーパーやコンビ二では食料品は棚に無く、仕入れも未定の状態。開店時間にも長蛇の列。役所の広報では、冷静な行動を呼びかけていますが、群集心理も働き、パニックの様相を呈して来ています。

情報も錯綜。計画停電の実施が不定期など、生活に大きな支障をきたしつつあります。

ライフラインのストップは生きることが難しくなるので大変ですが、今こそ非常時の冷静さと、混乱が少なくなるように、みんなで協力すべきときではないでしょうか。

花粉症の季節と重なって、テンションの下がる毎日が続きます......。


 

今回は、グループホームに入所した義父のその後の話。

入所したのは、3/5(土)の午後。義父は、入所施設の責任者の方とは、2回の面識がありました。一度は自宅に訪問時で、もう1回は、10日前に一度、義父を連れて、見学に来た時です。その時は、自分が入ることを知らずに、一応、こういう施設があるということで、わずかの時間、立ち寄ったわけです。

入所した日に、義父の利用する部屋に、事前に持ち物(洋服が大半)と、和タンスを持ち込んで引越しの準備。持ち物に名前を書いて、またベッド(手すり付き)を設置して待っていました。

施設側の責任者と綿密な打ち合わせ。一緒に来ていただいた、近所のおばさん2人も話をあわせていただき、協力してもらったおかげで、本人も施設に、今後いなければいけないと考えたと思います。

しかし、寝室が和室で畳にふとんであったのに、これからは洋室でベッドでの生活。環境の変化に対応できるかどうか、本当に心配しました。

いっぺんに帰ってしまうと、本人が寂しくなり、さらに不安な状態になってしまうので、順次、時間を置いて、帰宅するように指導されました。しかし、最後の長男(義兄)が帰ろうとするタイミングが難しくなって、施設内の駐車場で待っていた私たち夫婦は、買物後、2時間ほど待ち続けました。

午後8時過ぎに、女性職員が話している間隙を縫って、やっと帰ることができました。当日の夜は、朝方2時過ぎまで、眠れずになかなか納得できない状態で、職員の皆さんにご面倒をおかけしました。

翌日、午前中に3人で訪問。さらに、午後3時過ぎに再訪問して、義父の様子を見に行きました。だいぶ落ち着きを取り戻し、職員が案内して風呂に入るときに別れました。

その後、毎晩、妻が様子を聞くため、電話をかけていますが、最近では、入所している他の人たちとも話をしたり、自分で、職員たちに話しかけて、慣れて来たそうで、まずは一安心。

日によって波はありますが、地元の施設であったことが良かったと思います。職員と外に出かけて、散歩もしているそうです。

90歳の義父にとって、60年以上も住み慣れた自分の家から離れるのは、家族から見ても本意ではありませんが、認知が進むことを少しでも遅らせるためには、ベストではありませんが、よりベターな選択だと考えます。何よりも、食事と、火の始末、戸締りといった問題が心配要らないことです。

今回は、現在のところ、偶然にも大変良い施設にぶつかりましたが、家でずーと面倒を見るとなると、しっかりした覚悟と自分たちの経済的保障(仕事先)を考えた上での決断になります。

介護保険制度ができて10年あまり。今後の高齢者対策、年金、健康、医療といった問題が、個人で行うには限界があり、やはり、国、地方自治体、民間の補助、協力なしではやっていけない問題であり、早急な手立てが必要であると切実に感じられます。

自分たちが「親の面倒という問題」に直面すると、何らかの方策を考えなくてはいけませんが、介護や高齢者問題は、日本に限らず "待った無し" だということを言わざるを得ません。いずれ、自分たちも年をとると人ごとではすまされません。

 

3月も10日が過ぎ、本日が最初のブログとなってしまいました。

この間、2/27(日)から3/6(日)は、妻と交替して、義母の病院での付き添いと、実家での義父の家事をして、毎日過ごしました。正直、交替が隔週あるとはいえ、疲れもピークに達しました。

とくに、義母の方は、容態が日によっても良かったり悪かったりで、気温の寒暖にも病院内の暖房など、気を使います。状態の良い日は、左半身の手足を動かしますが、言葉はしゃべれずに、目などの反応はするものの、寝たきりの状態が続いています。毎日、3時間ほど付き添って、着替えやバスタオルの交換などのため通院していました。

また、義父の方は身体は丈夫ですが、一番大変なのが、義母が倒れて以来、話し相手がいなくなり、認知症が進んでしまったことです。自分の家や、私が誰で、何で家にいるのか、わからないときもあります。さらに、食事を作れないため、小生が腕をふるって、料理しています。

一番、大変なのは、7時過ぎに早く寝てしまうため、急にあることを思い出して、夜中に電気をつけて、起きてきて、あれこれと小生に聞くことです。その都度、起こされてしまいます。

記憶は、では無く、で覚えているため、つじつまが合わないことが多く、何度も説明して、いったんは納得しますが、翌日には忘れてしまっている状態です。したがって、こちらも、忍耐強く関わって、「老齢のための病気」という認識で対応していました。

2月初旬から、妻と相談して、認知症高齢者の施設を探していて、自分たちの習志野市内や、地元、小見川の施設を見に行って、たまたま地元に、施設側の好意的な施設があって、一室空いていて、入所できることになりました。

そもそも介護の実態は、高齢者をもつ家族にとって、本当につらいものがあります。現在、特別養護老人ホームの待機者が42万人もいるとのこと。有料施設でもすぐには入れない状態が続いています。また、入所条件でも地域優先があって、即時には入所できないため、介護のため、離職者が13万人もいます。また、国や地方自治体の補助金もカットされて来ているのが実態です。

今回は、宝くじに当たったと同じぐらいの確率で地元に入所できて、3/5(土)に病院の見舞に行った帰りに、入所のため、連れて行きました。同じ種類の施設でも、地元ならば、郷土の話題で、孤立して寂しくなる確立も少ないことや、実家に帰りたいときに帰らせてくれる施設側の姿勢に共感できました。

正直、住み慣れた自分の家から、施設に入所させることは、家族にとっても可哀想だと思いましたが、子どもたちにとっても、自分たちの生活がある以上、涙を呑んで、決断しました。

田舎では、過疎化が進み、跡継ぎが極端に少なくなっている実態があります。しかし、親を施設に預けるといったことが、まだまだ周囲には理解できない風土があります。

今回は、特に親しい近所の人にも、一緒に入所の際、同乗して、ご協力をいただいて、本当に助かりました。

少しでも、義父の認知症の進行が鈍化し、施設での生活に早く慣れてもらい、幸せ?な老後を送って欲しいものです。