今回、小生は広報紙の企画会議出席のため不参加。代表して兼子隊長に駅ハイの写真と状況を書いてもらい、発表させていただきます
コースは;国分寺駅cocobunjiプラザ 恋ヶ窪東遺跡柄鏡形敷石住居跡姿見の池東山道武蔵路跡国分寺薬師堂国史跡武蔵国分寺跡武蔵国分寺跡資料館お鷹の道・真姿の池湧水群不動橋・石橋供養塔日本の宇宙開発発祥の地顕彰碑・王貞治 国民栄誉賞記念碑電車開通記念碑 国分寺駅
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「国分寺」の地名由来...741年に聖武天皇が国家鎮護の勅命を出し、各国に国分僧寺・国分尼寺を建立することになった。国毎に必ず一つ建立されて、当時、武蔵国の国府である府中から近い場所に武蔵国分寺が立てられ、現在の地名の由来となった。
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4月25日(木)、JR国分寺駅10時集合。先月に続き今回も3人でのウォーク。ハトちゃんは日程が合わず不参加。改札を出ると案内板があり、そこには笑顔の遠藤副長。山根副長からは電車が遅れているとのメールあり。だがそれほど待たずに全員集合し、受付のプラザ5階総合案内へ。地図と缶バッチを受け取るが、遠藤副長はいつものように返却。
駅ハイの楽しみは、知らない町を
歩くことだ。お陰で初めての町をたくさん歩いてきた。「JR国分寺駅開業130周年記念 こくぶんじの恋と歴史と文化をめぐる春の探訪(約6.5km)」3時間コースに出発。
国分寺の恋とは何かと考えながら歩き出す。パラパラと降り出した雨。傘を差すほどでもないので、少し濡れながら歩いていると、そのうちに止んだ。藤沢は強い雨だったと山根副長。
国分寺は武蔵国分寺のあったところ。奈良時代の741(天平13)年、聖武天皇が諸国に国分寺建立を命じ、東山道武蔵路の東に僧寺、西に尼寺を建てた。国指定史跡になったのは1922(大正11)年である。
雑談に気を取られ、気づくと行き過ぎていたり、見落としていたりと言ったことがままある。恋ヶ窪東遺跡柄鏡敷石住居跡もそうだ。本町4丁目の信号を真っ直ぐに、姿見の池方向に進んでしまい、気づいて少し戻り、信号を右折し住居跡に。
この辺りの恋ヶ窪という地名は、鎌倉時代の武将畠山重忠に寵愛された遊女が、重忠戦死の報に悲しみ、自ら命を絶った故事から。この敷石住居は、縄文時代中期(5千年前頃)のものである。
国分寺駅はJR中央線と西武国分寺線・多摩湖線が交差し、西国分寺駅にはJR武蔵野線が走る。そのため線路を越えたり、くぐったりしながら目的地を辿ることになる。国分寺線を越えて姿見の池に向かったつもりが、米軍基地や失言大臣の話などをワイワイとしていたせいなのか、気づくと西国分寺駅前に出てしまった。
姿見の池は、湧水や恋ヶ窪用水が清水を湛え、遊女たちが朝な夕なに、池に姿を写したというので、姿見の池の名が生まれた。先の恋ヶ窪の遊女が身を投げた池でもあり、『武蔵野夫人』(大岡昇平著)にも登場する名所でもある。「こくぶんじの恋」というのは、このことだったのかと理解する。
池まで戻ろうかと話し合ったのだが、人生のように振り返らず、前に進む
ことにした。中央線と武蔵野線が乗り入れる西国分寺駅。駅前の交番を左折して進むと、日本芸術高等学校の高い建物が目に入る。この辺りは東山道武蔵路が開かれたところ。校内には、東山道の遺構平面レプリカが、野外展示されている。
東山道武蔵路跡は奈良時代からの
古い遺構で、上野国(現在の群馬県)から武蔵国府に至る往還路だった。発掘調査では、幅12メートルもの道路跡が見つかり、その地下遺構約300メートルが歩道の形で保存されている。
左手に都立多摩図書館、その奥に都立武蔵国分寺公園を確認しながら、幅12メートルの東山道武蔵路歩道を古人の気分で進むと、第四小学校、その先に消防署があり、その角を左折すると、駅ハイのメインである武蔵国分寺エリアである。国分寺薬師堂の横手から中に入ると、新緑が覆った境内は静かな空気が漂う。お堂を背景に今日の1枚を撮影。
薬師堂は1335(建武2)年、新田義貞の寄進で建立。現在の建物は宝暦の頃に移築、建て替えられたもの。参道の石段下には仁王門も。その仁王門をくぐり、石碑の建つ角を国分寺楼門に回ると、万葉植物園のある国分寺である。国分寺は真言宗豊山派の寺院。江戸時代には徳川幕府に保護され、1733(享保18)年には本堂が再建。現在の本堂は1987(昭和62)年に改築されたもの。
国分寺万葉植物園には、『万葉集』に詠まれた植物が収集されていて、植物ごとに例歌、詠み人の札も。例えば、カタクリの花には、「もののふの八十をとめらが頼把みまがふ寺井の上の堅香子の花」(大伴家持)。前回の「古河」も『万葉集』 の古里、我々はどうも『万葉集』 に縁を持つようである。
『万葉集』は、明治以降に広められ、富国強兵・忠君愛国の国づくりに使われることになる。大友家持の歌に曲が付けられた『海行かば』のように。
その隣りの武蔵国分寺跡資料館は見ずに、そのままお鷹の道へ。石碑のある向い側には、国史跡武蔵国分寺が整備され、市立歴史公園になっている。かつての金堂跡、講堂跡、七重塔跡が見られる。ここもスルーする。
お鷹の道は、用水路沿いに整備された、狭いが気持のよい遊歩道である。この辺りは尾張徳川家の御鷹場だった。今はシャガや水芭蕉に似た花が咲き、流れる水は真姿の池湧水群からの名水百選だ。また、蛍の生息地ということで、カワニナを採らないでと、立て札も。この小路の終点は不動橋だ。傍には石橋供養塔と不動明王碑があり、かつては疫病や災疫の伝染を防ぐ橋だった。
国分寺駅前に出て都立殿ヶ谷戸庭園の前を過ぎ、立体をくぐり、駅の反 対側に抜けて、早稲田実業学校へ。敷地内には日本の宇宙開発発祥の地顕彰碑が建っている。日本初のペンシルロケットの発射実験が糸川英夫教授によって行われた。並ぶように、ホームラン王・王貞治の国民栄誉賞記念碑が建つ。そうだったのかと感心する。
最後のポイントは電車開通記念碑だったが、分らずに通り越し、ゴールの国分寺駅北口へ。12時半過ぎにゴール、約2時間30分、1万4千歩だった。
国分寺駅前には高層マンションが建ち、郊外には静かな住宅地が広がる。縄文時代の昔から長い歴史を持つ地域であるのに、私には初めての国分寺駅下車の旅だった。いくつか見落としがあり、おしゃべりに気を取られてしまったことは、やはり「口は災いの元(笑)」ということだったのか?
温泉で昼食にして、国立駅からタクシーで「湯楽の里」へ。湯楽の里はいくつもあるので、馴染みの日帰り温泉だ。露天風呂に浸かった後は、いつもより早い食事タイム。生ビール大と角ハイボール大を飲みながら、尽きない雑談。今回は遠藤副長から熊本の土産をいただいた。山根副長とは新宿まで一緒だった。
最後に一句:「新緑や今日の一枚薬師堂」
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【写真説明】上段左から
①国分寺駅改札掲示板 ②恋ヶ窪東遺跡 ③西武国分寺線 ④遺構レプリカ野外展示 ⑤東山道武蔵路跡野外展示標識 ⑥東山道武蔵路歩道説明板 ⑦東山道武蔵路歩道 ⑧武蔵国分寺薬師堂 ⑨薬師堂仁王門 ⑩武蔵国分寺楼門 ⑪国分寺 ⑫お鷹の道(蛍の立て札) ⑬お鷹の道用水路 ⑭不動橋 ⑮日本の宇宙開発発祥の地顕彰碑 ⑯王貞治氏第1号国民栄誉賞記念碑 ⑰国分寺駅北口