今回、小生は膝の靱帯を痛めて不参加。したがって、代表して兼子隊長に駅ハイの状況と写真、付帯記事を書いてもらい、発表させていただきます
コースは;古河駅観光案内所 雀神社古河公方公園(古河総合公園・桃まつり会場)篆刻美術館古河第一小学校古河文学館古河歴史博物館 古河駅
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「古河」は、古くは「許我」と表記され、『万葉集』に当時の情景が2首詠まれている。すでに奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わっており、平安時代にも交通の要所になり、また製鉄や窯業の生産拠点であったことがうかがえる。
室町時代には古河公方の本拠地として、江戸時代には古河藩の城下町、奥州街道・日光街道の宿場町・古河宿として盛えた。古河藩は下総国であったため、現在でも旧常陸国、水戸街道が中心となって形成している茨城県の中では最も西部に位置し歴史的・文化的に特異な部分が多い〔ハト記〕。
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3月29日(金)、山根、遠藤、兼子の3名で古河を歩いた。めずらしく私が一番乗り。
古河は奥州街道、日光街道の宿場町で、『万葉集』にも詠まれた古い町だ。今回は古河公方公園の桃まつりがメイン。地図と缶バッチを受け取りスタートだ。遠藤副長は缶バッチいらない派。今回は約9.5km、3時間のコース。
駅前の鍛冶町通りを進み、よこまち柳通りに右折したが、雑談に気をとられて、行き過ぎてしまった。慌てて100mほど戻り、ポイントのファミリーマートの角を右折し、まっすぐの道を雀神社に向かう。昔この辺 りを雀が原と呼んでいたことに由来する。参拝者は駅ハイ組の女性が一人。
神社横手の堤に上がると、渡良瀬川の広々とした河川敷にゴルフ場が広がり、
土手には菜の花も咲き誇る。
クラブハウスらしき前には、足尾鉱毒事件の田中正造翁の大きな記念碑が建つ。正造翁は、「戦争は犯罪である。世界の軍備を全廃せよ」と訴えた人物でもある。利根川も5kmほどだ。
土手道がサイクリングロードになっていて、そこを三国橋とその先の新三国橋まで進む。曇り空で少し寒いが、気持は清々しい。新元号の話などいつもの雑談を楽しみながら前へ。
新三国橋を越えると、古河スポーツ交流センター、クリーンセンターの建物が並び 、土手を降りて古河公方公園への道に入る。
桃まつりの会場がこの公園で、広場の舞台では演歌歌手が黄色いドレスで唄っている。熱気球のアトラクションも見える。白のテントでは、焼きそば、たこやきなどが売られている。たこ焼きを3人で食 べたが、焼きたてで、火傷しそうに熱い。
公方公園は、鎌倉公方足利成氏の時代に由来する。江戸期には城主土井利勝が桃栽培を奨励した故事から、70年代に桃花の林を復活させたもの。利勝は秀忠、家光時代の老中である。園内の桃の木は3
千とも言われ、満開で見頃だ。公園一杯の桃の花が見事。
矢口、源平といった5種類の桃が咲き誇っている。中でも一つの花が紅白に分かれているもの、一つの木で紅白
の花をつけたものがあり、驚いたものだ。開催は4月5日まで。
また、大賀ハス(別名古代ハス)の池もあり、花の最盛期は7月。パンフによれば、2003年ユネスコの「メリナ・メルクーリ国際賞」に輝いた公園でもあり、入口にはその記念碑も。
桃の花を堪能し、公方通りを古河駅までまっすぐ戻るつもりだったが、途中の篆刻美術館に立ち寄
る話になった。その江戸町通りで、駅ハイの団体と行き交った。3館共通券を買ってしまったため、古河文学館、古河歴史博物館にも回ることに。
文学館には、古河出身の作家永井路子、小林久三などの作品が展示されている。博物館では、刀剣コレクションのほか、藩医河口信任の脳解剖書『解屍編』の出版本と解剖刀の展示も。
途中に建つ古河第一小学校は大変洒落た校舎で、石畳が敷かれ整備された綺麗な一角になっている。真面目に3館を回ったので、駅に戻ったのは2時近くになる。
行動時間は4時間、歩数は1万8千歩。この日はコースどおりではなく、行きつ戻りつで、結果長くなってしまったようだ。
ご当地グルメの「七福カレーめん」は食べずに、タクシーで市内の温泉「いちの湯」に向かい、昼はそこで。 洞窟風呂もあり、3人で疲れを癒やした。風呂上がりに食事処でビールを頼むと、プレミアム・フライデーで、ビールのサービス券がもらえた。お陰様で、一杯250円でビール2杯が飲めた。
帰りは17時14分発の上野行。土産を探し、4分発の平塚行に乗る積もりが、私のミスで乗りそこなった。それと、二人に出雲土産を渡すつもりが、家に帰ってから気づくという締まらない終り方だった。
最後に一句: 「咲く桜 菜の花も咲き 桃も咲く 」
【新元号雑感】
エイプリルフールに発表された新元号「令和」。古河駅ハイで、『万葉集』の展示を見たりした後なので、その偶然に驚いた。
だが、「令和」の典拠とされる『万葉集』巻五「梅花の歌」の題詞は、山上憶良が書いたと言われる。
憶良は遣唐使で漢籍にも通じた人。研究者の間では、詩文集「文選」の巻十五、張衡の「帰田賦」から、また王羲之の『蘭亭序』の「恵風和暢」の一節から借用したものとされている。令月と言う言葉も、中国からのものだろう。
政府が出典を国書に拘ったことから、エイプリルフールについた悲しい嘘とは言えまいか。自分流の裏翻訳は、「命令に従わぬは和を乱す元なり」。令は、「人を集めて従わせる」の象形。和は、昭和の和で、戦前の記憶と重なる。
「令和」の考案者は、『万葉集』研究の中西進氏と言われる。『古事記』や『日本書紀』よりも、『万葉集』に脚光が集まることは悪いことではないが、「令和」の典拠を併記するなど、誠実さがあってよかったし、日中の歴史を振り返ることも大事であったはず。
また、東大の本郷教授(歴史学)は、従来皇太子の命令を「令旨」、天皇の命令は「綸旨」と呼んできており、この「令」の使用はダメとも指摘している。西暦が世界標準の現在、せめて公文書も併記すべきだとは、駅ハイでの声であった。この機会に、元号について考えてみたい。
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