今年の原水禁世界大会(8/4~6;広島)に参加し、被爆者の実相体験、証言を聴いて、衝撃を受けました。被爆者とともに、未来を担う若い世代に語り継ぐべく、ここに一部要約して紹介します。
原水禁世界大会(広島)被爆者体験話から抜粋
『広島原爆には約50㎏のウラン235が使用され、このうち核分裂を起こしたのは1kg程度。B29エノラゲイが飛来して原爆(リトルボーイ)を投下、相生橋よりやや 東南の島 病院付近高度約600mの上空、1億分の1秒で核分裂爆発を起こし、爆心地500m圏内では閃光と衝撃波が同時に襲ったとのこと。猛烈な放射線を出し、衝撃波とともに巨大な爆風が建築物の大半を一瞬のうちに破壊し、爆心地2km以内の木造家屋は倒壊炎上。人間を含む生物、草木も放射線を浴びて焼失。爆心地は上からグシャとつぶされた状況(原爆ドームを参照)。
鉄筋コンクリートも鉄骨を残して消失。橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。投下直後、「町が消えた」状態になったそうです。
強力な熱線により、人が一瞬で蒸発・炭化したと言われているのは誤りで、3千度を超える熱熱線
は0.2秒ほどで、大半の人々は血液、体液が落ちて照射された部分の皮膚が燃えて、ケロイド状態になり、熱さのため、水を求めて、次々と川に飛び込み逃げまどった。被爆者の衣類を剥ぎ取り、ほとんど裸で、火傷を負った表皮を剥ぎ取り、昏倒から覚めた被爆者は自分の腕や足の皮膚が剥がれて垂れ下がり、爪のところでようやくつながって、ぶら下げて逃げた者や、強い衝撃で眼球が、また腸が腹腔から飛び出した者などもいたそうです。悲惨な修羅場と化し、大混乱。
川も見る見るうちに遺体で埋まり始め、道路も遺体が大量に溢れたそうです。大量の死体を並べて、一同に燃やしたそうですが、判別がつかないほどの損傷で、身元がわからずじまいで誰も引き取りに来ない人が大半。薬を求めて押し寄せる被爆者の仮治療所では、薬の数、手当が間に合わずに、皮膚が腐って来るために、若い人のみ手足の切断をして、やむなく生きる方法を施した医者もいたそうです。後に医者が懺悔。爆心地近くにいて被爆し生き残ったが、現在も原爆の後遺症が残っているとのこと』
『友人とともに爆風で吹き飛ばされ、自分は閃光とともに気絶した。兄は爆死し、友人もしばらくして亡くなった。7歳にして「地獄絵」を見た。一瞬にして、5万人近い命が失われ、年末までに14万人が亡くなった。その後、「黒い雨」が降りはじめ、目に見えない放射線障害との戦いがはじまった。二次感染で手がしびれたり、体がだるくなることもしばしばあるそうです。思
い出すと、何も言いたくなかったが、核の恐ろしさ、戦争の犠牲者を出したくないという思いから、実相を話す必要性に駆られた』
『非人道的兵器は、絶対に許されない。放射能の半減期や無くなるまでの期間を考えると、核兵器や原発の恐ろしさがわかると思う。未だに福島原発事故の最終処理・場が決まっていない矛盾を抱えている。安全でない原発はいらない』
被爆者の高齢化が進む中で、実相の体験談を聞くことで終わってしまうのではなく、皆さんの「追体験」を作って、次の世代に語り継ぎ広めていってもらいたい。
「 二度とつらい被爆を起こさせない平和な世界を作るべく、核兵器をなくしましょう 」と。
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