7月10日(火)の「ゆうほ21」ウォークは、「上野恩賜公園とその周辺の歴史を訪ねる(約5km)」で、「京成船橋」駅構内に9時30分に集まったのは、先生を含め17名。45分発の快速特急に乗って終点「京成上野」駅へ。
所要時間30分。2ヵ月ほど、ウォークのスタートが11時を過ぎていたのですが、本日は移動距離が短く早めのスタート(10:10)。早速、神田先生より本日のコースと、寺社・歴史巡りの紹介。メンバーは公園、動物園や美術館などへは来ているが、違った視点でウォークできることを期待。天候は晴れで、蒸し暑い。先生から「この時期は、小刻みの水分補給」と言われ、さらに塩入りのラムネのプレゼント。
トイレを済ませ、いざスタート(10:08)。まず、上野恩賜公園内に入って、最初 のポイントは、蜀山人の歌碑に。次に愛犬を連れて兎狩りで有名な西 郷隆盛銅像〔地上7.2mで高村光雲作。西郷は明治維新の立役者と西南の役で没。公園のシンボル〕へ(10:20)。ちょうど、周囲は整備のため、シートがかけられていましたが、西郷どんは堂々と立っていました。
次に、彰義隊戦死者の墓〔江戸時代末期、徳川慶喜の警備隊。戊辰戦争で官軍と戦い、敗戦。戦死者を祀る墓碑を造る。1881(明治14)年に、山岡鉄舟筆の大墓石が建てられる〕を、鉄柵越しに墓参(10:23)。
そして、すぐ傍にある天海僧正毛髪塚〔天海僧正とは江戸初期の天台宗の高僧で1683(寛永20)年108歳で死去。ここに供養塔を建立。毛髪を納めた宝塔も後に建立〕へ(10:28)。先生の説明にメンバーが耳を傾けます。
その後、寛永寺清水堂脇の階段を降りて、不忍池(しの ばずの池)方面へ(10:40)。階段が2段ごとにあり、歩幅が合わずちょいと苦労します。
ここで、先生から上野の寛永寺が西の比叡山延暦寺に対して、山号が東叡山ということ、清水堂が京都の清水寺に見立てて、舞台があること、そして不忍池が琵琶湖に見立てていることなどを教えていただき、一同感心しきり。 勉強になりました。
ちょうど正面を進んで、広い池の中央部分へ。池には、一面大きな蓮の葉で覆われていて、」ところど ころにピンク色の蓮の花や蕾が...。天海僧正が琵琶湖の竹生島になぞらえ、造った中之島で弁天堂を勧進したが、太平洋戦争で焼失。1958(昭和33)年 に再興された〕。弁天堂の外装はまだ新しく、赤を中心にきらびやか。修学旅行生や観光客の姿も...(10:45)。鯉や亀が池で泳いでいる。
また、池のほとりにふぐの墓碑やめがねの碑、駅伝発祥の記念碑なども...(10:58)。
公園に戻って、精養軒横を通って、次に行ったのが五篠天神社と花園稲荷神社 。時鐘堂〔現在の鐘は、1787(天明7)年に改鋳されたもので、毎日3回、時を告げている〕も下から眺めました(11:06)。
さらに、上野大仏〔度重なる地震や火災で破壊さ れ、胴体は太平洋戦争で供出。顔だけがレリーフとして残存。実際の像高約6mの釈迦如来坐像だった〕(11:08)。上野に大仏の頭だけがあるなんて、ハトちゃんは新発見。奥行きの無い、平べったい顔のパーツのバランスが悪く、また場所が目立たないので、知らない人も多いと思う。傍に、大仏再建を願うパゴダ(仏塔)があります。また近くに、時忘れじの塔〔落語家の故・林家三平師匠未亡人海老名香葉子さんが建立した、東京大空襲を忘れないための平和の母子像の記念碑〕もあります。
細い道を上って行くと、赤い色の寛永寺清水堂〔1631(寛永8)年、天海 が建立〕へ(11:15)。清水寺を模したというが、本家の迫力には程遠く、皆 で舞台に上がるも眺望が悪く、期待はずれ。そして、擂鉢山古墳(前方後円墳)ですが、緑多き公園の築山ぐらいにしか見えない。
ここで、正午も迫って来たのですが、観るポイント間の歩行距離が短いため、公園中央部にある野口英世 像〔黄熱病の研究で世界的に有名〕と、工事中の噴水広場を回って、ポートワン博士像〔オランダの一等軍医で、明治政府に公園設立を提言し、「上野」が公園第1号〕、そ れにグラント将軍植樹碑の横には、明治維新の功労者小松宮彰仁親王の騎馬像を観て回りました(11:30~43)。
そして、パンダの赤ちゃん誕生で沸く「上野動物園」と遊具のある「こども遊園地」横を通って、東照宮〔1627(寛永4)年、城建築で有名な藤堂高虎が造営し、徳川家光が造替。現在、改修中で2014年オープン予定〕 (11:45)。残念ながら、建物は観れず、垂れ幕・写真での観賞。参道の銅灯籠、石灯籠、それにお化け灯籠を観賞。ぼたん苑もあります。塀越しに、五重塔も確認できました。
やっと、こども遊園地前の休憩所で昼食にありついて、思い思いの弁当を...(11:55~12:40)。動物園東園が見えます。出入口前には、平日な のに入園者が多い。パンダ誕生(本日は未公開)の掲示や無料の紙のお面も配られていました。小生も記念に1個もらって、かぶっていると、メンバーに大受け。翌日に、悲報が入って小生もがっかり。 食事後、恒例の女性陣から飴の分配が届く。
今回は、距離が短いのですが、暑かったせいとポイントが盛りだくさんで、園内をぐるぐる回っていたので意外とくたびれました。
満腹になると、いつもの習慣で眠くなります。
先生の掛け声で、重い腰をあげ、次に向かったのが旧東京音楽学校奏楽堂(12:46)。途中の広場で、芸大と思われる学生が、野外で大声で歌っています。
その先に、奏楽堂〔1890(明治23)年、旧東京音楽学校・現東京芸術大学の講堂兼音楽ホールとして建てられる。日本最古の洋式音楽ホールとして木造総2階建、1階に資料や写真展示、2階が音楽ホール(かまぼこ型天井、パイプオルガン)。1987(昭和62)年に現在地に移築保存〕があり、全員で入館(入場料300円)し、国重要文化財を見学。今でも、年間百数十回の演奏会が行われているそうで、由緒ある舞台が使用されているそうです。
次に、旧博物館動物園駅(閉鎖中)の向かいに、耐震工事中の黒田清輝(近代洋画の父・「湖畔」が代表作)記念館 横の国会図書館国際子ども図書館(入場無料)に入館(13:15)。
ダイナミックな吹き抜け20mを、1階から鋳鉄製の手摺の大階段を3階まで上って行きます。また、高い天井や壁の漆喰装飾を創建当時に復元し、照明器具(各シャンデリア)など、明治期~昭和期の近代的技術が残り、東京都選定歴史的建造物に選ばれているだけに外観もすばらしい。
窓から、東京スカイツリーが良く観えます。また。図書館としても120万冊を収蔵し、延床面積約2万㎡という立派さで、3階のエントランスからは中庭では発掘調査が...。
最後に寛永寺〔天台宗の寺。1625年(寛永2)天海が幕府の命により創建。比 叡山が京都の鬼門(北東)にあたるのに対して、寛永寺は江戸の鬼門にあたり東叡山と号して、江戸城鎮護と国家安穏長久を祈願した。1698(元禄11)年に建立された根元中堂は、戊辰戦争で焼失。明治12年に川越喜多院本地堂を移築したもの。江戸期には、将軍家の菩提寺として、また、幕末から明治への変革期、大正・昭和の歴史を物語る際、上野寛永寺はその中心に。多くの史跡が残存〕
参道から境内に入り、霊園も通る(13:30)。未公開の6人の将軍(4代家 綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定)の霊廟がある。そして、厄除け両大師(慈恵・慈眼)を祀る開山堂{ぼけ封じ祈願の幟 を見つけ、一同大笑い}や、創建当時の旧本坊表門を観賞(14:00)。葵の紋と、絢爛な彩色・構え
その後、上野中学校正門前を通って、美術館・博物館の裏通りを進み、観光バスの駐車場、JRの電車を左手に見て、公園口の文化会館前で解散となりました(14:20)。
神田先生と有志は、浅草寺のほうずき市(7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていましたが、浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するということ)に出かけて、他のメンバーは、早めに地元習志野へと別れました。
今回、上野恩賜公園周辺の歴史的な史跡・寺社めぐりで、新・再発見があって大変良かったと思います。今後も、神田先生には案内人で大変でしょうが、楽しいウォーキングを続けていければと願っています。 8月は、避暑を兼ねて日光ウォーク。どんな発見ができるか、今から楽しみです。
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